フライヤー画像

COMMENT京都公演の感想コメント

三輪眞弘

「夏八景」の夢

 僕の「テクノロジーと音楽」に関する知識はもっぱら戦後の電子音楽やミュージック・コンクレートに始まる電子音響音楽の歴史、つまり、「録音された」人工的な音響や具体音などを編集、加工して(当時は録音テープに)定着される「音楽」としてのそれだ。テープレコーダーが使われる前からラジオ放送が始まっていたことは知っていたが、そのような録音技術が現れる以前の「夏八景」の制作は一体どうしていたのか。・・録音はできないけれど放送はできるという状況においては「スタジオ・ライブ」をするしかなかった。そして、今回のイベントのチラシに載せられた写真はまさにその様子を伝えたものだろう。そこで、ぼくが素朴に考えることは「夏八景」の制作者たちはこのラジオ放送のための「番組」をどのように捉えていたのかということだ。言い換えると、一回限りで過ぎ去っていく放送の時間経過を「聴覚のための純粋な芸術」として表現しようとした情熱とは何だったのか。・・それは「あり得るかもしれない時空間を人為的に創造し、放送を通して共有する」ことだったのではないかと思う。

 話は変わるが、「雨の日」を音だけで表現するために、雨の日の野外にマイクを立てて録音すれば(昭和5年当時はそれも現実的ではなかったわけだが)それが理想的とは限らない。むしろほとんど場合、その録音は「雨の日」のようには聞こえないだろう。しかも当時のラジオの限られた音の帯域幅やノイズ比などの条件の下ではなおさらである。生録音ではなくむしろ擬音(効果音)という「フェイク」を使うことこそが現実的だったろうし、それが唯一の選択肢だったに違いない。この音響の「アニメーション」とでもいえそうな、擬音によって生み出される「架空の時空間」はラジオというメディアから生まれる必然的な発想であり、それによって可能になる「聴覚のための純粋な芸術」は誰もが抱かざるを得ない「夢」だったように思えてくる。たとえば、それは戦後にラジオドラマの制作から発展し、確立された西ドイツ放送協会のAkustischeKunst(音響芸術)というコンセプトにも通じるものだったと思う。

 当時の様々な技術的困難がほぼすべて克服されたように見える現在、今回のイベントでその「再創造」を試みた二人の作曲家は現代のテクノロジーを駆使し、しかしそれぞれのスタイルで、歴史的とも言うべきそのような「夢」に対峙していた。フィールド・レコーディングや、A.I.による環境音の生成などをフェイクとは呼ばないだろうが、やはり、ぼくにはそれらが音響の「アニメーション」によって描かれた時空間だと感じられた。また、それは視覚を伴うV.R.の体験のような圧倒的/暴力的なものではなく、「夏八景」というのどかなテーマだったからなのか、不思議な心地よい仮想世界の体験でもあった。そのような意味で、確かに二人の作品は「聴覚のための純粋な芸術」という近代技術が生み出した夢に即した現代からの応答だったとも言えるし、今でも、さらにA.I.によってでさえも、テクノロジーに対する人間の姿勢は変わってはいないとも感じられた。その一方で、今回の「再創造」は、「スタジオ・ライブ」つまり音具を人力で「演奏」して行われた「夏八景」とは異なり、マルチチャンネル録音の再生だった。まったくの想像だが、オリジナルの「夏八景」のアイデアはまた、ラジオ放送の歴史に先立つ1913年にイタリア未来派のルイジ・ルッソロが提唱した夢、「騒音芸術」に連なる方向性を秘めたものでもあったのではないかとふと思った。

柳沢 英輔(フィールド録音作家)

 NHKの電子音楽のルーツ、昭和5年放送の「夏八景」を立体音響により再創造するというイベントに参加した。観客を取り囲むように設置された8台のスピーカーから、檜垣智也氏と清水慶彦氏が梗概を手がかりに作曲された音が順番に流れる。両者の作曲手法は対照的である。清水氏はフィールド・レコーディングを加工・編集して曲にするサウンドスケープ・コンポジションを、檜垣氏はすべて生成AIにより出力された音声を用いた作曲である。清水氏からフィールド・レコーディングの苦労(動物がなかなか鳴いてくれなかったり)や現代的なアレンジ(当時の尺八の代わりに清水氏の奥様が日常的に家で練習しているバロックフルートの音を録音して用いたり)が語られた。また檜垣氏は、納得のいく音が出力されるまで、何度もプロンプトを調整しながら生成AIに指示を繰り返したという。生成AIはやり直しができる分、一発勝負のフィールド録音とは異なり、ある意味で終わりのない作業であった。

 これらの手法の違いが曲の差異としてどのように現れていたのかは、音を聴いた印象からは正直なところよく分からなかった。曲に用いる素材としての音という意味であれば、生成AIが出力したものであれ、フィールド録音されたものであれ、もはやそこに大きな差はないのかもしれない。違いがあるとすれば、それはプロセス(体験)の部分だろう。生成AIとフィールド・レコーディングは、どちらもテクノロジーを介在させた「対話」という点では共通しているとも言える。ただし、生成AIは人工知能との「言葉」を用いた対話、フィールド・レコーディングは録音機材により拡張された身体による「聴く」という行為を通した環境との「対話」である。今後AIがますます進化していくとしても、このプロセスの部分を置き換えることはできないのではないか。

 100年という時間を経て再創造された「音景」がどのように描かれ、貴方の身体に響くのか、ぜひ体験してもらいたい。

嘉ノ海 幹彦(元ロック・マガジン編集/FMDJ)

「模倣(ミメーシス)としての「夏八景」によせて」

電波信号を介したラジオ放送は1900年カナダで音声の送受信をもって始まるといわれている。1920年アメリカにおいて公共放送が開始されるが、のちに電子音楽やテープ音楽の中心地となるアメリカだったというのは偶然ではない。ヨーロッパでは19世紀末西洋音楽が行き詰まりをみせ、響きを中心とした具体音に活路を見出そうとしていた中で、古代ギリシャの純正律の構造に気付いたアメリカの作曲家は独自の音響実験を始めていた。楽器そのものを創作したり、テープ装置を楽器として使ったり、電子装置から響きを取り出したり、新興開拓地であるアメリカにはそのような実験音楽が生まる土壌があったのである。

このような状況の中でNHKがラジオ放送を開始するのがほぼ同時期の1925年である。しかも送受信された第一声はカナダやアメリカと同じように「人の声」であったという。目に見えない知覚しえない場所から届く、又は届けられる人の声。しかし断じて本物の「人の声」ではない。電気を使い電波信号に変換されるからである。この知覚の問題はマーシャル・マクルーハン(1911−80)の「身体の拡張性」としてのメディアの役割を孕みながらAR(拡張現実)VR(仮想現実)へと現代に繋がっている。

発生する音を知覚するということは、空気振動を通して耳毛細胞という聴音感覚器官に届き化学反応を起こし、それに呼応した脳が信号を受取り聴覚細胞が反応する身体現象である。その状況に応じ内臓も含め多方面に神経伝達物質が放出されるのである。人類が誕生以来、身体は外部からの音に対して微細な気付きや予感を含め警戒・防衛反応と連動する。常に音は身体の外部や内部に関わらず音連れ続けているのである。

NHKは放送開始5年後の1930年にラジオ電波を通して自然の中に存在する生活音(当時の彼らはそれを風景=ランドスケープと呼んだ)を機材=道具を使って、それらの音を模倣し放送したのである。「夏八景」の放送とは第一景の「ビルディングの午後」から第八景の「水の上」までの様々な夏の風景を想起させる音を受信機の前のリスナーが聴きイメージする放送だったのである。そして川崎さんの解説通り、
続き(全文)を読む→

金崎 亮太(電子音響音楽家)

約100年前、「純粋ラジオ芸術」という言葉のもとに、音によって景色を立ち上げようと試みた実験的な先駆者たちがいました。
彼らが生み出した音の作品群は“芸術”と呼ばれながらも、当の本人たちは自らを芸術家と意識していたわけではなかったかもしれません。 ましてや録音技術がまだ未成熟だった時代、その試みが後世において語られるとは、夢にも思っていなかったでしょう。

「夏八景」は幸運にも川崎弘二氏によって再び光を当てられ、檜垣智也氏と清水慶彦氏の手を通して「再創造」されました。
作曲家の二人は、当時と同じく梗概を手がかりに、それぞれの手法を駆使しながら音を丁寧に紡ぎ合わせていき、立体音響システムを用いて初演の時を迎えた。
時間も場所も越えて、その場には再創造された音の景色が明らかに、そして美しく立ち顕れていたのです。

音の景色をそのまま再現することはもはや不可能ですが、音の景色を探究しようとするその姿勢は、100年前の先駆者たちと変わらぬ姿であったはずです。

おそらく「夏八景」のような「純粋ラジオ芸術」の試みは無数に存在し、私たちがもはや耳にすることのできない音の景色や芸術が、文字通り音を立てずに静かに眠っているのでしょう。
「再創造」された音の景色——「夏八景」と出会えたことは、私にとってひとつの幸運であったといえます。
そして今度は、あなた自身の耳で、その音の風景にそっと触れてみてください。

NHKの電子音楽のルーツ昭和5年放送の「夏八景」を立体音響により再創造する

2025年は日本でNHKがラジオ放送を開始してから100年を迎える年です。

NHKでは放送開始直後からラジオドラマを始めとする聴覚のための純粋な芸術への挑戦が行われており、昭和5年(1930年)には擬音(効果音)を主役とした作品「夏八景」が放送されるに至ります。

これは映画「ベルリン─大都会交響楽─」などの作品で知られるヴァルター・ルットマン監督が、映画のサウンドトラックを使用して制作した電子音楽の始祖「ウィークエンド」を発表したわずか2ヶ月後で、本格的な国産トーキー映画「マダムと女房」が公開される前年のことです。

すなわち「夏八景」は映画の効果音などの先例のない状況で、独自のアイディアを結集させることにより、現実音を模した擬音を駆使して制作されたわけです。それは電子音楽やフィールド・レコーディングの先祖のような存在と言えるかもしれません。

昭和5年のNHKには実用に足る録音機は存在せず、生放送で行われた「夏八景」はもちろん現存していません。

そこで「夏八景」の梗概をもとにして、ミュジック・コンクレートやフィールド・レコーディングの分野でも活躍する2人の作曲家が、現代的な視点から「夏八景」の再創造を試みることになりました。

複数のスピーカーを駆使して空間的な立体音響を実現する2025年版の「夏八景」の上演は、放送局を舞台に音響の世界を追究した100年に及ぶメディア・パフォーマンスの歴史を再確認するまたとない機会となることでしょう。

立体音響上演システム
立体音響上演システム

EVENT開催概要

イベント名
書籍「NHKの電子音楽」発売記念
NHKの電子音楽のルーツ、昭和5年放送の「夏八景」を立体音響により再創造する
日時
2025年10月12日(日)
昼公演14:00〜15:30(開場13:30)/夜公演 17:00〜18:30(開場16:30)
会場
MEDIA SHOP メディアショップ
京都市中京区大黒町44 VOXビル1F/075–255–0783
→ Google map
出演
檜垣智也(作曲家/東海大学准教授)
清水慶彦(作曲家/大分大学准教授)
川崎弘二(電子音楽研究)
料金
一般1,500円(各回)/学生1,000円(各回)
予約優先 各回定員20名
メールにてご予約お願いいたします→ kojiks0317@gmail.com
協力
(株)フィルムアート社

composers / producer作曲 / プロデュース

出演者画像
出演者(左から):檜垣智也/清水慶彦/川崎弘二

プロフィール

檜垣 智也 作曲家、アクースモニスト。アクースマティックの可能性を追求。世界中のアクースモニウムで演奏し、リサイタル活動は高く評価されている。第5回国際リュック・フェラーリ・コンクール最高賞(2003)、第18回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品(2014)、大阪文化祭奨励賞(2022)など受賞、入選多数。ソロアルバムは「豊饒の海」(Motus)「入院患者たち」(engine books)など。愛知県立芸術大学大学院修了。博士(芸術工学、九州大学)。東海大学准教授、大阪芸術大学大学院客員教授。
清水 慶彦 作曲家/怪談作家。近年はフィールド・レコーディングやサウンドスケープ・コンポジションに注力しつつ、奇談怪談の収集著述に勤しむ。作曲家として作品集CD『六相円融』(studio N.A.T)が『レコード芸術』誌推薦盤に選定、作品はニューヨークでの音楽祭「ミュージック・フロム・ジャパン2018」等でも上演されている。怪談作家(筆名:丸太町小川)として単著怪談集『大分怪談』(竹書房怪談文庫)、『実話拾遺うつせみ怪談』(竹書房怪談文庫)など。京都市立芸術大学卒、同大学院修了、博士(音楽)。大分大学教育学部准教授。
川崎 弘二 1970年大阪生まれ。2006年に「日本の電子音楽」、2009年に同書の増補改訂版(愛育社)、2011年に「黛敏郎の電子音楽」、2012年に「篠原眞の電子音楽」(以上 engine books)を上梓。2014年にNHK Eテレ「スコラ 坂本龍一 音楽の学校 電子音楽編」に小沼純一/三輪眞弘と出演。2018年に「武満徹の電子音楽」(アルテスパブリッシング)、2023年に松井茂との共著「坂本龍一のメディア・パフォーマンス」(フィルムアート社)を上梓し、2022~23年に雑誌「AGI」において「メルツバウ・ヒストリーインタビュー」を連載。https://kojiks.sakura.ne.jp/index.html

LINK書籍紹介

NHKの電子音楽特設サイトバナー