書籍「武満徹の電子音楽」追加調査


 2018年7月に書籍「武満徹の電子音楽」(アルテスパブリッシング)が刊行されました。こちらのページでは刊行後の調査で判明した事項を紹介いたします。調査にご協力いただいた方々に感謝申し上げます。



◼️P607下段L14以降を以下に修正

 一九六二年十一月二十六日に発行された讀賣新聞には「日本生命会館では、日生劇場の演劇のほかに映画部を設けて活動することになり、第一作として日本生命のPR映画『小さな冒険旅行』の撮影を開始した。/これは石原慎太郎原作、石堂淑朗脚本、大島渚監督による一時間弱のカラー・ワイド作品。三歳の男の子が東京を放浪するうちに体験するさまざまなことを、映画詩のように描くもので、内容はまったくPRを離れたものだという」1)と記されている。
 また、一九六三年に日生劇場の映画部は石原慎太郎と浅利慶太の総指揮、米山彊の製作、野田真吉の監督、谷川俊太郎と寺山修司の脚本による「文化とともに」という映画を製作しており、この映画の音楽を武満徹が担当していたようである。

1)無記名「日生、映画部を新設 第一作『小さな冒険旅行』」『讀賣新聞 夕刊』(一九六二年十一月二十六日)7面



◼️P622下段L20を以下に修正

「フラワー・イヴェント」(「マーリカ5」の可能性がある)
 ↓
「マーリカ5」



◼️P633下段L7以降を以下に修正

 また、一九六四年十月四日にも東宝の製作による和田嘉訓脚本/監督の映画「自動車泥棒」が公開され、武満が音楽、斎藤明が録音を手掛けている。「自動車泥棒」のストーリーは「混血児ホームに収容されている子どもたちが、街頭の自動車から部品を盗み出し、秘密の防空ゴウで野牛の形をした車を組立て、日本脱出をはかる」1)というものであり、この映画も国外への「脱出」が主人公の目標となっている。
 この映画のタイトル音楽は、ピート・シーガーが一九五八年にリリースしたレコードに収録したことで知られるようになった「Abiyoyo」2)というアフリカ民謡の編曲であり、この民謡はさまざまに編曲されて映画の各場面に使用されている。そして、この映画のための音楽で特に電子的な操作が施されている曲が三曲ある。まず、自動車の部品を盗んでいたため門限に間に合わなかった主人公たちは、ホームのシスターから夕食を抜かれてしまう。映画の冒頭から約六分半後、空腹の彼らは「チャルメラを吹きながら屋台をひいていたラーメン屋の親父の前に、突然酋長(註・主人公)たちが立ちはだかり、驚いた親父は思わず屋台を捨てて逃げてしまう」3)ことで夕食を手に入れる。このシーンの音楽M5はプリペアド・ピアノのような音を歪ませて二倍程度に速度を落とした音に、金属を擦(こす)るような高い音をミックスすることで作曲されているようである。
 社会的な規範を逸脱する主人公たちはホームのシスターから叱責を受ける(冒頭から約二十分後)。このシーンには金属的な音響に残響成分を付与し、再生速度を落としたものが二十秒ほど使用されている。映画の後半、仲間が次々と去っていくものの、主人公は新しい仲間を得てついに「野牛の形をした車」を完成させる。続いての「ホームの建物内に車で突入した酋長と子供たちは、偽善的シスターを象かたどった肉の塊をつるし上げて、今までの恨みとばかりに物を投げ付けていく」4)という場面には(冒頭から七十二分後)、鐘のような音による短いフレーズにエコー成分と残響成分を多めに付与した上で、さらに三倍程度に引き伸ばした音響のループが用いられている。

1)無記名「野心作だが未熟 『自動車泥棒』(東宝)」『朝日新聞 夕刊』(一九六四年十月九日)9面
2)Pete Seeger / Sleep-Time / USA / LP / Folkways Records / FC-7525 / 1958 / B2
3)小学館出版局武満徹全集編集室編『武満徹全集 第3巻 映画音楽1』小学館(二〇〇三年四月)158頁
4)註3、159頁



◼️P696に以下を追加

 一九五八年一月に松下電器産業から松下通信工業が分離し、六五年六月に「松下通信のスローガンが決定された。新スローガンは、『電子技術で未来をひらく松下通信工業』」1)というものであった。一九六六年一月には同社の商務部宣伝課の企画、東宝記録映画の製作によるPR映画「電子技術で未来をひらく」が完成し、「PR映画年鑑」によると津村秀哉が監督、武満徹が音楽を担当したようである(既存の録音の流用の可能性もある)。「PR映画年鑑」の解説には「新しく設立された当社の全貌を紹介する」2)とのみ記されており、複数台の業務用と思しきレコード・プレイヤーを背景に音響卓を操作している子どもを捉えた写真が掲載されている。松下通信工業は一九六一年に「わが国初のオールトランジスタ化音声スタジオを東京ラジオ放送局に納入」3)するなどしており、松下通信工業のこうした音響機器などがこの映画では紹介されていたのかもしれない。

1)原田修二編集責任「松下通信物語 未来つくりの半世紀/1965年(昭和40年)の松下通信」http://www.top5.co.jp/pana-mci/1965.html(二〇一九年五月十二日にアクセス)
2)鈴木幹也編『PR映画年鑑 1967年版』証券投資センター(一九六七年六月)161頁
3)原田修二編集責任「松下通信物語 未来つくりの半世紀/1961年(昭和36年)の納入製品・販売製品」http://www.top5.co.jp/pana-mci/1961.html(二〇一九年五月十二日にアクセス)



◼️P735下段L3以降を以下に修正

 篠田正浩と岩下志麻によって設立された表現社というプロダクションの第一作として、一九六七年九月三十日には篠田の監督による映画「あかね雲」が芸術祭参加作品として松竹の配給により公開され、音楽を武満徹、録音を西崎英雄が担当した。映画のストーリーは「家を助けるためにからだを売り、しかもだれをうらむことも知らない世間知らずのあどけない女を主人公に、古くから日本人のハダになじんだやさしく悲しい愛の物語」1)というものであり、篠田は武満によって作曲された音楽について「音楽的にこんなに美しい音楽もないんじゃないですかね」2)と評しており、秋山邦晴は「全体としては、ここでは一見、尖鋭な実験といったもののない抒情的とも言える音楽なんだけれども(略)緻密な感受性が、映画の流れをみごとに生みだしている」3)と述べている。
 この映画は十三箇所に音楽が付けられており、全体的に特徴的な電子的変調などは行われていないようである。

1)無記名「あかね雲 表現社 北陸の街、悲しい女心 篠田・岩下 おしどり一作」『朝日新聞 夕刊』(一九六七年十月三日)12面
2)篠田正浩『闇の中の安息 篠田正浩評論集』フィルムアート社(一九七九年十一月)209頁
3)註2に同じ。



◼️P888上段L13以降を以下に修正

 一九七七年七月二日からテレビ朝日では、「土曜ワイド劇場」という一時間半の枠による単発テレビ・ドラマの放送を開始した。テレビ朝日の社史では「海外の劇場用映画の枯渇状況を見越し、アメリカのテレビ界におけるミニ・シリーズ(テレビ用長編映画)の活況ぶりをみて、長時間枠の素材を外国製のものから国産に切り替える方針を固め、テレビ映画製作に実績のあるメジャー系統の映画会社やプロダクション、テレビ界の俊秀を集めたディレクター集団」1)らと長時間枠のテレビ・ドラマの制作を検討してきたと記されている。放送開始当初の土曜ワイド劇場では、井上梅次/岡本喜八/中平康/中村登/西河克己/舛田利雄/増村保造といった監督たちが起用されていた。
 この枠で渡辺企画とテレビ朝日の制作、東京映画の制作協力により一九七七年十月二十二日に放送された「危険な童話」では、黒木和雄が監督、武満徹が音楽、安田哲男が録音、浜勝堂が録音助手としてクレジットされている。新聞記事ではこの番組のストーリーを「美しい未亡人の部屋で発見された死体をめぐる完全犯罪と、事件にいどむ刑事の執念を描く」2)と紹介している。音楽としては映画「不良少年」の同一の音楽が抜粋されて九箇所に流用されており、クレジットからこれらは全てキングレコードから発売されたレコードを使用していることが明らかとなった。時期的にこの流用は一九七六年五月に発売されたレコード「日本名作映画テーマ音楽集」3)をソースにしていた可能性がある。安田は映画「不良少年」でも録音を担当していたため、「不良少年」の流用は安田の発案によるものだったのかもしれない。

1)全国朝日放送株式会社総務局社史編纂部『テレビ朝日社史 ファミリー視聴の25年』全国朝日放送(一九八四年二月)250頁
2)無記名「土曜ワイド劇場『危険な童話・私は殺さない…』」『朝日新聞』(一九七七年十月二十二日)24面
3)日本名作映画テーマ音楽集 / Japan / 2xLP / キングレコード / SKD(M)-370~1 / OD: gatefold / 1976.05.05



◼️P1008上段L1以降を以下に修正

 一九八九年一月十五日に「出会い 二つの伝統 西洋の音・日本の音」という「教育テレビ30周年記念」という副題を持つ三時間十五分枠の番組がNHK教育テレビから放送された。「あなたにとって/西洋のクラシック音楽とは…/そして/日本の伝統音楽とは何か」というテロップから始まるこの番組は、石井眞木(司会)/武満徹/一柳慧/横山勝也/芝祐靖/観世榮夫による座談会を中心に、NHK教育テレビにて放送された演奏会のアーカイブ、そして、小澤征爾/如月小春/篠田正浩/杉浦康平/手塚眞/若杉弘/和田勉/モーリス・ベジャール/ドナルド・キーンらへのビデオ・インタビューが随所に挿入され、全体的な進行は葛西聖司アナウンサー/千住真理子が務めた。
 紹介されるアーカイブの映像には黛敏郎「涅槃交響曲」/武満徹「ノヴェンバー・ステップス」「水の曲」/三善晃「響紋」などの日本人作曲家による作品、「綾の鼓」(入野義朗音楽)/「イン・モーション」(武満徹音楽)/「玄」(石井眞木音楽)などの日本人作曲家が関わったテレビのための作品、そして、イタリア・オペラ/来日したクラシック音楽の演奏家による演奏会/能なども含まれていた。放送当日の新聞記事ではこの番組を「NHK教育テレビ開局三十周年を記念し、開局直後の音楽番組を回顧する。当時から盛んになった日本伝統音楽と西洋音楽の融合を試みた曲で、日本人作曲家によって書かれた名作、武満徹の『ノベンバー・ステップ』などの作品を聴くとともに、ゆかりの人々が当時の映像資料を見ながら語り合う」 1)と紹介しているが、回顧されたのは開局直後の番組のみではない。
 座談会において武満は、日本万国博覧会について「非常にポジティブに芸術家が表現媒体として、技術っていうものに対して非常に肯定的な夢を見ていたいい時代だったんですね」と述べており、それから約二十年が経過した後ではテクノロジーに対してネガティブな印象が強くなっていることを明らかにしている。そして「音色っていうものは何なんだって言うと、西洋の近代化っていうものが目指していたのは、音楽の上においてでもなるたけ不純なものがなくて、そういう純なものであれば、さきほど横山さんが言われたようなサイン・ウェーブの音ですね、倍音を含まない音、それを自分たちが新たにまた合成していけば自分たちが欲しいものができると。っていう考え方と、我々はたぶん複雑な雑音があるものの中から自分たちが美しいものをそこから聴き出してくるんですね。ちょうど逆なことがあって(略)音楽的な関心、僕なんかがいちばん関心を持つのは、やっぱり音色(ねいろ)ってことですね。それは雑音って言ってもいいんだけど」と述べており、やはり武満は電子音にそのものに興味を持っていなかったことが分かる。

1)無記名「出会い・二つの伝統」『朝日新聞』(一九八九年一月十五日) 32 面



◼️詳細不明

 武満徹は中部日本放送のラジオ番組のための音楽を手がけていたことがあったとのこと。