鈴木治行「句読点」シリーズ全曲演奏会 ~ 脱臼す、る時間




「新しい音響」に飽きたリスナーのための、新しい時間体験

 野々村禎彦(音楽批評)

 鈴木治行という作曲家は、リスナーの立ち位置に応じてさまざまな顔を見せる。いわゆる「現代音楽」の作曲家としては他の誰にも似ていない器楽曲を書き続け、電子音楽の作曲家としては発想でも素材でも「現代音楽」の枠を軽々と踏み越え、映画音楽の作曲家としても多忙な日々を送る。いずれの分野でも「音楽とは何か」という根源に立ち返って新しい発想を探求する姿勢が彼を特徴付ける。電子音楽の大家で、器楽曲にも別系統の発想で取り組んだのはシュトックハウゼンだけだ。クセナキスや湯浅譲二はどちらも同じ発想で作曲し、フェラーリは器楽曲は実用音楽だと割り切っていた。ここでも鈴木の思考は「器楽曲とは何か」から始まる。戦後前衛の流れを汲む作曲家が求め続けた「新しい音響」は、いまや即興音楽で十分に実現されており、作曲家が取り組むべきは「新しい時間体験」の構築だ――この姿勢は、即興音楽の尖端で作曲行為を捉え直す杉本拓、宇波拓らとも共通する。

 鈴木の器楽曲は、音楽を感情表現の器ではなく、音響体が時間を分節したものと捉えるモダニズムが前提になっている。現代美術や実験映画の豊富な体験に裏打ちされた姿勢に、プレモダンの情緒性が忍び込む余地はない。彼は大雑把には、アンサンブル作品は「反復もの」、独奏曲は「句読点」の手法で作曲してきた。前者では記憶に残りやすい素材から断片を切り出し、さまざまなテンポや装飾で反復して重ね合わせる。後者では特徴的な持続(チェロならばバロック音楽のアンサンブルの要に、トランペットならば帝王マイルスの楽器にふさわしいフレーズ)に多種多様な異物を投げ込み句読点を打つ。どちらの場合も、切り出しや異物投入は「自然な流れ」に反する箇所で行われ、即興でも自明とされる「身体的な自然」が作曲という人為的操作で異化され、脱臼してゆく過程で新しい時間体験が得られる。

 特に《句読点》シリーズでは、リスナーが異物の投入に慣れてそれを「自然」と感じるようになった段階で、どのような手を打つかが聴き所になっている。ただしこのシリーズは従来、ソロリサイタルやソロアルバムの中の1曲として披露されてきた。「わかりやすい持続&異物の投入」という前段階からして既に極めて異質なだけに、肝心な部分は往々にして聴き逃されてしまった。だが今回は、このシリーズのみの演奏会なので心配はいらない。鈴木作品は初めてでも、2~3曲も聴けばコンセプトは掴め、音楽の核心に降りて行くことができるはずだ。