鈴木治行「句読点」シリーズ全曲演奏会 ~ 脱臼す、る時間




「句読点」シリーズ概説

 鈴木治行


●タイトルとしての「句読点」はソロ楽器にのみつけられ、シリーズを為しているが、コンセプトとしての「句読点」は楽器編成に関係なく存在しうる。

●「句読点」シリーズは、現在までのところ8曲ある。
 句読点 I vc
 句読点 II ob
 句読点 III s-sax
 句読点 IV vla
 句読点 V trp
 句読点 VI hpsi
 句読点 VII 二十絃
 句読点 VIII pf

●その他の「句読点もの」(「句読点」のコンセプトで作曲された作品群)
 stumble(1993) vln, vla, trp, hr
 殺しの烙印(1995) a-fl, cl, vla, vc
 Strand(1998) 2fl, guit
 ほうほうの体(2000) tape
 Aztec Crevice(2006) fl, vla
 蛇行(2007) bar, zepyros, keyboard

 以下、編曲作品
 夜霧への感謝(2006)
 eternal stumbling(2006)
 Is This C's Song?(2006)
 Casablanca Moonshine(2008)

●「句読点」のコンセプトについて
 「句読点」という名称は、連続した文章に読点を穿つことによって流れを断ち切る、という意味でつけられた。流れている音楽に異物を差し挟むことで流れを脱臼させることを意図している。

●「句読点」に至る前史
 戦後の前衛音楽は「新しい音響の開拓」を基軸として発展してきた。もっと遡ると、この流れは戦後始まったわけではなく、ドビュッシーやヴァレーズからも直接つながっているし、更には、和声の複雑化の歴史がそもそもそうだった。19世紀一杯までは和声の拡張:三和音→7,9の和音→11,13の和音といった3度の堆積の複雑化の方向、また4度和声、2度和声、微分音程、クラスターなど、堆積する基本音程単位の拡張、そして変化和音、新しい旋法etc。しかし、音程内だけでの拡張が限界に達した結果、更に新しい音響を生成する手段として創作楽器、特殊奏法、電子音、具体音、コンピューターによる音色合成etcが導入されるようになる。ここまでで、スペクトル楽派もラッへンマンもすべて入ってしまう。
 しかし、音響は新しくても、それを古い革袋に入れた音楽が多すぎるのではないかという、現状に対する根本的な疑問をかねてより抱いていた。そういう音楽を聴く体験は、古典を聴く体験と本質的には変わらない。そういう現状認識の上で、新しい音響ではなく、新しい時間体験を提出できないものか。(重要な先行例として、後期フェルドマン、シェルシ、ウストヴォルスカヤ、初期ライヒ、近藤譲etc)
 こうして、作曲上の関心が「新しい時間体験を作ること」にはっきり移行したのが90年代頭。これが僕にとってのパラダイム・シフトだった。音を作るのではなく、そのむこうにある時間体験を作る。世の中のほとんどの作曲家は音を作るわけだが、そうではなく、「時間体験」を作る。しかし、音がなくては「時間体験」も作れないので、「時間体験」という目的地に至るための通過点として「音」を作る。こういう姿勢は、過去にもどこかで発言した「どんな素材でも持ってこれる」につながる。

●「句読点」の時間体験
 通常の音楽は自然に流れるのをよしとするが、それとは逆に、流れを脱臼した際の切断感覚、宙に浮き、ぎくしゃくし、迂回し、聴き手の耳をつんのめらせるような時間体験の創出を目指す。音はその体験を生み出すための素材。ただし、こうした考えは、「新しい時間体験を作る」という理念から思いついたわけではない。後から振り返ると、昔から、調性的なメロディを書いても、直線的ではない、迂回したひねった音の動きを好んでしまうという嗜好が、自分の中にはあった。要は、自分にとってはこうした脱臼的な感覚が一番自然で、快感だからやっている、ということに尽きる。それを事後的に振り返って自己分析してみると以上のようなことが見えてきた、ということ。

●「句読点」の実際
 「脱臼」を実現するためには、まず「自然に流れている、連続的な」母体を用意する必要がある。それは、一定の特徴(音程、リズムetc)を持った音の動きであったり、誰でも知っている既成曲であったりする(知っていることによって連続性が生まれる)。そこに、全くかけ離れた性格を持った異物Aが楔のように突如挿入される。しばらくして再び異物Aの挿入。しかし、これが繰り返されてゆくにつれ、切断の驚きはなくなってゆく。人間の感覚は同じ刺激に対して馴れてしまうからだ。そこで、次に異物Aとはまた全く異なった性格の異物Bが挿入される。この異物Bの挿入も、繰り返されるにつれ驚きは麻痺してゆく。こうして次々に異物C、D、E……が召還される。この辺の、感覚の馴化の様子を見計らいながらどのタイミングでどの異物を入れるか、の匙加減は全く直感的に為される。しかし、やがて、こうした異物Xが次々現れる状態そのものがルーチン化する時がやってくる(異物のインフレーション)。いろんな異物が数珠繋ぎに次々立ち現れる状態そのものが持続になってしまうのだ。そうなった時、次の段階として、「異物Xの到来」そのものを異化するメタレベルの仕掛けが必要になってくる。それをどうするか、がこのシリーズの課題であり、うまく行った時もあれば行かなかった時もある。

●他の路線との比較
 僕の音楽には、「句読点もの」でなくても、脱臼や唐突な切断は随所に見られるだろう。それは先に書いたように、それが理屈でなく僕の生理的な嗜好であるが故なのだが、ということは、僕の音楽はすべて「句読点もの」と言えないこともない。しかし、作曲する側からすると、アプローチにおいて明確な違いがある。作り方を比較すると、「反復もの」は、まず素材を用意し、それを細断し、部分に様々な反復を施しながら素材全体を行ったり来たりしつつ、何度もトレースしながら加工してゆく(「反復もの」の中でも一つ一つ違うが)。「語りもの」(周辺作も含む)は、全体の構成を俯瞰し、音と言葉、音と音、言葉と言葉の関係性の糸を(時間差も取り混ぜながら)縦横に張り巡らせてゆく。一方、「反復もの」はといえば、これは全く経験主義的に、頭から時間軸に沿って順に作曲する。先に述べたような、異物とそれに対する馴れの追いかけっこのコントロールは、自分がそれを体験しながら作らないと難しい。

●付記
 近年では、僕自身のいろんな路線の要素が混ざっていてどれともつかないような作品も生まれている。例えば『蛇行』は言葉による自己言及という点では「語りもの」周辺作だし、元になっている調性的なパターンが何度も回帰する構造は反復ものでもあり、それが奏法の突如の変化やポルタメントで断ち切られたりする点は句読点。