夜の会
▪️1947
09/25
花田清輝『錯亂の論理』眞善美社(1947年9月)発行
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岡本太郎「ある日、偶然のきっかけだった。知人の家で、本棚を眺めたとき、ふと惹かれた。『錯乱の論理』……面白い題名だ。手に取って、頁をめくってみた。嬉しくなった。/おや、こんな日本人がいたのか。(略)清輝という存在すら知らなかった私が、『凄いやつがいるものだ。』と、心ひそかに敬愛の情を抱いた。是非会って話しあってみたい。当時よく私の家を訪ねて来た雑誌『人間』の編集者に清輝のことを話すと、『花田さんなら近所に住んでいて、よく知っていますよ。御紹介します。』と言った。/その数日後のことだった。突然、清輝が一人で、その頃世田谷の奥、上野毛にあったわが家を訪ねて来たのだ」
◎岡本太郎「清輝と私」花田清輝『アヴァンギャルド芸術』筑摩書房(1975年11月)276〜277頁
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埴谷雄高「花田清輝の本を岡本太郎が読んで、当時、鎌倉文庫からでていた『人間』の編集者に、感心したという話をすると、当時成城にいて花田清輝の家と近かつたその編集者がその話を花田清輝に伝え、そして、喜んだ花田清輝が上野毛にいた岡本太郎のもとを早速訪ねてきたのだそうである。そして、二人で話しあっている裡に芸術運動の会をつくろうということになり、そのとき、私達の名前がつぎつぎとあげられたのだそうである」
◎埴谷雄高「『夜の会』のこと補足」『花田清輝全集 第6巻』講談社(1978年1月)月報8頁
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関根弘「真善美社から出た花田清輝の『錯乱の論理』(二十二年九月)を読んで感激した岡本太郎から面会の申込みがあり、それから急速に芽生えた交友」
◎関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』草思社(1978年10月)176〜177頁
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「岡本太郎はたまたま花田清輝の本を読み、感心したあまり、当時の『人間』の編集者にそのことを述べると、その編集者がそれを花田清輝に伝え、そして、知己を見出した思いの花田清輝が上野毛の岡本太郎宅を訪ねてきたのだそうである。それは昭和二十二年初夏である」
◎埴谷雄高「『夜の会』の頃の岡本太郎」『岡本太郎著作集 第1巻』講談社(1979年10月)389頁
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埴谷雄高「昭和二十二年の秋、まだ瓦礫の山が見渡すかぎり拡がっている廃墟のなかにぽつんと残った一つのビルディング、内部まで焼けおちた隣のビルディングと生と死の双生児のごとく寄りそいあいながらこちらは焼けのこっているそのビルディングの薄暗い陰惨な地下室で『夜の会』の最初の会合がもたれた」
「絶えず声高く喋りつづけている岡本太郎と四癖も五癖もありげな不敵な面魂の花田清輝の二人が提唱者として薄闇の中央に坐っており、そのまわりに中野秀人、野間宏、佐々木基一、椎名麟三、梅崎春生、安部公房、関根弘、私などのまだ回復できぬままに瘠せた険しい顔がレンブラント光線を斜めに受けた一枚の絵画の構図のようにぼんやり浮んでいるのであった。秘密結社の発足にも似たその最初の薄暗いサバトの宴には篤実な渡辺一夫さんまで集められていたけれども、廃墟から出現した兇暴なパルチザンとしてはあまりに温厚すぎた渡辺さんはそれきりで、以後、『夜の会』の会員とはならなかった」
「花田清輝は、それにひきつづいて、多摩川のほとりにある狛江村和泉の花田清輝宅(略)、『夜』と題する大きな絵がアトリエに置いてあっていわば『夜の会』の直接の象徴ともなった岡本太郎宅、それにまた、吉祥寺の私宅などに集り、それ以外することがないかのごとくに、飲み、且つ、論じたのであつた。私の家では応接間の家具のすべてを取り払ってダンスもやり、当時の映画『安城家の舞踏会』をもじって杉森久英が『埴谷家の舞踏会』と名づけたその後の数多いパーティの出発点ともなったのであった」
◎埴谷雄高「『夜の会』の頃 椎名麟三の想い出」『展望』174号(1973年6月)32, 33頁
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埴谷雄高「昭和二十二年夏、銀座の焼けビルディングの薄暗い地下室で、それぞれ、新しい数歩を踏み出したい精神的苦闘を長く地下へ潜ったパルチザンのような栄養不足の兇悪な顔付の下におしつつんでいた椎名麟三、梅崎春生、野間宏、佐々木基一、安部公房、関根弘、渡辺一夫、私、それに組織者の岡本太郎と花田清輝が初めて顔を合わせたのである。(略)もっとも、そのときはまだ会の名称はきまっていず、狛江の花田清輝宅における会合を経て、つぎに上野毛の岡本太郎宅に集ったとき、板張りのアトリエの中央に置かれていた一枚の抽象画が『夜』と第されていたので、ほとんどのものがでていた会合の席上で、その絵の名をとって『夜の会』ときまったのである。(略)そのとき、印象的だったのは、ジュネーヴ在住の長かった鮎沢巌の娘が私たちすべてを無視して岡本太郎だけとフランス語で話しあっていたことである」
◎埴谷雄高「『夜の会』の頃の岡本太郎」『岡本太郎著作集 第1巻』講談社(1979年10月)391〜392頁
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埴谷雄高「或るとき、岡本太郎宅での会合に、当時日本に帰っていた『ヨーロッパ風美人』鮎沢巌令嬢が出席して(略)その挙措、態度のすべてがすっかりヨーロッパふうになるのは当然であるけれども、岡本太郎とフランス語だけで話し、日本語で話しあっている私達を『一見』まったく無視しているように見えるその『新女性』の出現に、梅崎春生は野間宏、椎名麟三の『戦後文学の出現』以上にびっくりしたのである」
◎埴谷雄高「『夜の会』のこと 『影繪の時代』V」『文藝』15巻8号(1976年8月)175頁
▪️1948
01/19
「夜の会」結成(岡本太郎宅)
梅崎春生、岡本太郎、小野十三郎、佐々木基一、椎名麟三、中野秀人、野間宏、花田清輝、埴谷雄高
「文学、絵画のアルチザン的風潮に抗議して花田清輝、岡本太郎、中野秀人、佐々木基一、埴谷雄高、小野十三郎、野間宏氏らを発起人に十九日アヴアンギヤルド『夜の会』を結成」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1948年1月22日)2面
関根弘「わたしや安部公房などは、オブザーバーとして参加していて、いつのまにか会員みたいなことになった」
◎関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』草思社(1978年10月)177頁
関根弘「基本メンバーのほかに、これをとりまく参加者がつねに数人いた。そのなかに横山バレエの横山はるひが会の仕事を手伝うということで顔をみせていた」
◎関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』草思社(1978年10月)177頁
針生一郎「安部公房はぼくと同じで、同人ではなかった。若手の一人として会に参加するうちに常連になったんだ。美術では山口勝弘とか池田龍雄とかがいた。ほかに関根弘が安部公房と並ぶ常連の、一番年上のような感じで。(略)東中野の『モナミ』という喫茶店で、この間まであってもうなくなったんだが、一流レストランだけど敗戦直後はコーヒー一杯の代金を払うと午後中ずっとねばっていられる。だから会場費というのは別に出したかどうかよく知らないけども、そこで月2回の例会をやってた」
◎針生一郎、沢山遼「インタビュー 2009年10月23日」針生一郎×沢山遼
01/26
花田清輝「本來の意味における前衛精神とは何か。それは絶えず破壊すると共に、絶えず創造する精神だ。孤独に耐えながら、まつしぐらに前進する精神だ。機会を踏みにじり、好適を弾く精神だ。妥協せず、安住せず、自足せず、-高みに達したばあいには、ふたたびまつさかさまに、谷底にけかつてころがり落ちようとする精神だ。つまり、一言にしていえば、それは革命の精神である。(略)今度、わたしたちのつくつた『夜の会』は、こういう精神に支えられており、いわゆるモダニストの集りではないのである。岡本太郎、小野十三郎、野間宏、椎名麟三、埴谷雄高、中野秀人、梅崎春生、佐々木基一、-いずれも楽園のなかにあつて、みずからの孤独を守りぬくことのできる、堂々たる独立人ばかりだ」
◎花田清輝「革命的藝術の道」『読売新聞』(1948年1月26日)2面
02/05
岡本太郎「我々が今度『夜の会』を結成して敢てアヴァンギャルドど自称する所以は後進国の悲しさ、我が國の藝術界には未だに、手工物の遺物である、ディレッタント、アルチザンのみがばつこして、封建的な勢力は、用意に抜くべくもない状況にある。これを破碎しなければならないという、戦闘的な歴史的な任務を自覚するからである。(略)行く手にふりかゝつて來る難関、及び誤解は、あくまでも乗り越えて行かねばならぬ。その点『夜の会』の仲間は、同様な悲劇的な立場を自覚するであろう。(一月三十一日)」
◎岡本太郎「悲劇的な立場の自覚」『東京大学新聞』(1948年2月5日)2面
02/13
岡本太郎「我々アバンギヤルド藝術家は、相互の無慈悲な對立と闘争によつてクリエートする。(略)苦悩なくして、絶望的な飛躍なくして、新しい時代を創りあげることは出來ない。/飛躍は高い足場を前提とする。『夜の會』は、我々のつくりあげた極めて高い足場である」
◎岡本太郎「夜の會」『世界日報』(1948年2月26日)2面
02/16
第1回(モナミ)
中野秀人報告「神について」
埴谷雄高ほか
「アヴアンギヤルド『夜の会』では十六日午後二時から中野秀人氏の『神について』を中心に討論、会場東中野モナミ」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1948年2月10日)2面
埴谷雄高「最初、中野秀人が『神について』報告したときあまりにその論旨を皆が無視したという理由で、中野秀人が怒ってすぐ会員をやめてしまった」
◎埴谷雄高「『夜の会』の頃 椎名麟三の想い出」『展望』174号(1973年6月)34頁
埴谷雄高「中野秀人自身はその直後、討論者達がみな真面目でなく、自分の意見に対して嘲弄的であったとして、その『神について』の最初の報告とともに、『夜の会』をやめてしまったのであった。(略)その会合で中野秀人の意見に嘲弄的であったものなどひとりもいなかったというのが私自身の古い記憶である」
◎埴谷雄高「『夜の会』のこと」『文藝』15巻8号(1976年8月)176頁
埴谷雄高「岡本太郎が支配人を知っていた東中野のモナミを固定した集会場とし、紅茶一杯で数時間もねばる研究会を月に二回か三回くらい開くことになったのである」
◎埴谷雄高「『夜の会』の頃 椎名麟三の想い出」『展望』174号(1973年6月)34頁
埴谷雄高「月曜書房と奈良の一出版社が資金的後ろだてとして『組織』されており、月曜書房を代表して、嘗てバスケット・ボールの選手として背の高い永田宣夫が長いテーブルの遠い右はしに腰かけ俯向きながら聞きいっていると、その反対側の左はしには、奈良の出版社の東京代表である、黒い袴をはいた総髪の『柳生連也斎』こと五味康祐がむっつりと夜の大鴉のように腰かけていて」
◎埴谷雄高「『夜の会』のこと」『文藝』15巻8号(1976年8月)177頁
関根弘「集会のスポンサーは、奈良の三興出版社だった。この出版社の駐在代表がのちに剣豪作家になった五味康祐で、黒い着物に黒い袴をつけて、オッカナイ顔をして会場の一隅にいた」
◎関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』草思社(1978年10月)178頁
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第2回(モナミ)
埴谷雄高報告「悪魔について」
五味康祐、永田宣夫、花田清輝ほか
「嘗ては人間も神も悪魔も、すべて、未分であったけれども、次第に一元的な神が確立し、その秩序厳しい統制時代に移るにつれて、やがて、多元的な悪魔達、その時代に生きている人間の数とまったく同数の多様な悪魔が出現することによって、私達は見違えるほど生彩あるものになり、そして、『私は悪を欲して、しかも、善をなすところのあの力の部分です』と自己紹介するメフィストフェレスの出現こそその生彩ある悪魔達の代表者の出現を示すことになった、といつた内容であった」
◎埴谷雄高「『夜の会』のこと」『文藝』15巻8号(1976年8月)176〜177頁
針生一郎「東大に48年に来たわけだ。 それで最初に下宿していたのが東中野の知り合いの家でね。4月からそこに住んだんだけど3月頃、もしかしたら仙台で見たのかもしれないけど、新聞に戦後派の作家、批評家が集まって『夜の会』という総合芸術の運動を始めたという記事が大きく掲載されたんで、モナミは近所でもあるし、じゃあ行ってみようと。2回目くらいから、なんとなく常連になった」
◎針生一郎、沢山遼「インタビュー 2009年10月23日」針生一郎×沢山遼
05/03
安部公房報告「真理について」
「夜ノ会で真理について話す。/実存的方法の確立をしなければならぬことを主張した。それについて、花田氏、野間氏の考えを更に問い正す必要あり」
◎安部公房「Memorandum 1948」『安部公房全集 1 1942.12–1948.5』新潮社(1997年7月)483頁
05/10
「『夜の会』ではマニフエストを発表、機関誌(季刊)『夜』を十一月発刊する」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1948年5月3日)4面
05/17
「神学について」(モナミ)
「夜の会『神学について』(二時)、東中野モナミ」
◎無記名「今日のメモ」『讀賣新聞』(1948年5月17日)2面
05/19
「『夜の会』事務所を銀座六の四交詢ビル三興出版部に新設」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1948年5月19日)2面
06/07
花田清輝報告「リアリズム序説」(モナミ)
岡本太郎、片山修三、佐々木基一、野間宏
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)143〜178頁
06/21
第10回
関根弘報告「社会主義リアリズムについて」
安部公房、岡本太郎、佐々木基一、野間宏、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)207〜240頁
岡本太郎報告「デフォルマシオンについて」
06/25
椎名麟三『永遠なる序章』河出書房(1948年6月)発行
07/05
佐々木基一報告「フィクションについて」
安部公房、岡本太郎、関根弘、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)241〜279頁
07/19
野間宏報告「実験小説論」
佐々木基一、関根弘、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)179〜206頁
08/16
椎名麟三報告「人間の條件について」
安部公房、岡本太郎、野間宏、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)107〜142頁
出海溪也「たしか八月十六日の『夜の会』の席上だつたと思うが--その日は椎名麟三の『人間の條件について』という報告があつた--報告が終つて座談に移つたとき、『あなたはあまりにも観念的なことば--たとえば永遠や神や虛無など--をもてあそんでいる』と攻撃した。(この攻撃した人は実存宗教の信奉者であつたが)これに対して椎名はこともなげあつさりそれをみとめ、『いかにも僕の惱みは観念的な惱みであつて、生活的肉體的な惱みではない』と斷言した。そしてこんどはかれが『それではきゝますがあなたは神を信じますか』と反問した。しばらく考えていたがやがて、それに答えて、『信じていると言わねばならぬでしよう』という。すると椎名は體をふるわして怒り、『信じていると言わねばならぬとは何とアイマイなことだ。きみの神は噓だ。神というものは人間によつて或いは自己によつて強制されて求められるものではない。どうすることも出来ない或る力--すなわち神によつて強制されるものである。虛無の虛無のどん底に陥つてはじめて得られるものである。--もちろんぼくのいう神は一般にいう神の槪念とはちがうかも知れぬが--。ニイチエなどはその意味においてほんとうに神をつかんでいたのだ』と聲をふるわせて卓をたゝいた」
◎出海溪也「ルンペン・ジヤパニーズについて 近代主義の超克」『芸術前衛』1巻1号(1949年2月)13頁
09/06
埴谷雄高報告「反時代的精神」
安部公房、岡本太郎、椎名麟三、関根弘、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)75〜105頁
09/20
安部公房報告「創造のモメント」
岡本太郎、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)45〜74頁
09/??
「『夜の会』を発展的に解消、二十代の会『世紀』と合流する形で『アヴァンギャルド芸術研究会』発足。新たに池田龍雄らが参加。会場は本郷・喜福寺本堂」
◎「安部公房年譜」『安部公房全集 30 1924.3–1993.1』新潮社(2009年3月)633頁
「夜の会がなんとなく消滅したあとで、花田清輝と岡本太郎は、アヴァンギャルド芸術研究会をつくった。/アヴァンギャルド芸術研究会というのは、東大正門前の喜福寺で開かれたもので、このお寺のお尚さんが岡本太郎と同じく二科会の会員であることから本堂を会場に貸してくれることになった。毎月、第二、第四土曜日が例会で、毎回、岡本太郎、花田清輝の講義があり、アヴァンギャルド絵画の実作指導というか批評をおこなっていた。本堂にイッパイ絵が持込まれ、その絵を一枚一枚具体的に批評する試みは、夜の会にはなかったもので、極めて活気に溢れていた」
◎関根弘『針の穴とラクダの夢 半自伝』草思社(1978年10月)179頁
針生一郎「『夜の会』というのは実は半年しか続かず、ぼくは『世紀の会』だけに参加することになった。『夜の会』の流れで、モナミから本郷の喜福寺で絵も制作していた住職、名前は今思い出せないが、彼のお寺を借りて岡本太郎を中心に美術、文学を中心として、作品を持ち寄ってみんなで合評するという『アヴァンギャルド芸術研究会』ができたんだ。だがそれも半年しか続かなくて『世紀の会』がすべて統括することになり」
◎針生一郎、沢山遼「インタビュー 2009年10月23日」針生一郎×沢山遼
10/30
埴谷雄高『死靈』真善美社(1948年10月)発行
11/30
岡本太郎『岡本太郎画文集 アヴァンギャルド』月曜書房(1948年11月)発行
12/04
埴谷雄高「死靈」出版記念会(モナミ)
「山室静、伊藤整、原民喜、片山修三、岡本太郎、関根弘、椎名麟三、花田清輝、本多秋五、荒正人、佐々木基一、久保田正文、野間宏らが出席、作者の前途を祝した」
◎埴谷雄高全集編集部編『埴谷雄高全集 別巻「資料集」』講談社(2001年5月)44頁
12/24
「アヴアンギヤルド芸術研究会…講師花田清輝、岡本太郎両氏、毎月第二、第四土曜、東大赤門前喜福寺で行う(連絡先 文京区本郷三の二真善美社)」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1948年12月24日)2面
▪️1949
02/21
岡本太郎報告「対極主義」
佐々木基一、埴谷雄高、花田清輝
◎夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)5〜43頁
03/06
小田切秀雄報告「現代詩の問題」
03/10
花田清輝『二つの世界』(月曜書房)発行
※岡本太郎装幀
03/14
「近代文学派に属する福田恆存(三八)梅崎春生(三五)椎名麟三(三九)花田清輝(四〇)野間宏(三五)武田泰淳(三八)などの作家に、画壇三十代のアバンギャルド代表と自称する岡本太郎(三九)を加えた『夜の会』はまさに世代の縮図だ」
◎無記名「日本の年輪4 30才代 『カストリ』から立直る?」『朝日新聞』(1949年3月14日)2面
04/09
20世紀美術講座 第1回 椎名麟三「新しい描写について」(喜福寺)
※夜の会と世紀の会の共催
04/23
「廿世紀美術講座=夜の会、世紀主催、廿三日二時、東大正門前喜福寺、講師は岡本太郎氏『アヴアンギヤルドの技術』」
◎無記名「よみうり抄」『讀賣新聞』(1949年4月20日)2面
05/05
夜の会編『新しい藝術の探究』月曜書房(1949年5月)発行